キンドル:愛の預言5








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神の手本 動物食について再考 
(聖書が語る動物食)



私が提唱する菜食主義

私は常々、動物を殺してはならない。動物の命を大切にしなければならないと提唱してきました。
そして動物の肉を食べることは、動物を殺していることに等しいのだから、肉食を止めるようにと。

その1つの理由は「動物がかわいそうだから」というもの
2つ目は動物食が人間を凶暴にしているから

動物の命 現代の風習

まず1つ目の問題ですが、現代社会=この世に於いて、人類は当然のごとく「肉」を食べています。
焼肉、牛丼、とんかつ、ステーキ、日本人も韓国人も、中東にはケバブなどとうものがあったり、中国では犬まで食べるそうだし、彼らが食べないものはないと言われるほど、彼らは何でも食材にしてしまうのです。

アメリカ人は主食が肉で、それを習慣にしています。
ハンバーガーというのは「パンの間に死肉を挟んだもの」であり、しかし、現代人はそれをライトな食べ物としています。
つまり「ファスト・フード」=簡単に、早く食べられるもの、という風に呼ばれ、安易なスナック感覚で誰しも食べているものではありませんか。

しかし、その裏で牛が惨殺される事態があるのです。

そう、そのような事態はあるのですが、皆、それは今更言うまでもなく承知しているのです。
そのようなドキュメンタリー映画を放映しても、現代人は「なんて事だ。こんな残酷なことなら、明日から肉を食べるのを止めよう」とは言わないのです。

ある者は「何て酷いんだ」と言いながら笑い、「さあ、ステーキを喰いに行こう」とジョークを言い、またある者は「なるほど、こうして我々は命を食しているのか。毎日の食に感謝しなければならないな」などと言うわけです。

つまり、彼らは全く事の本質を理解せず、せいぜい「感謝して食べよう」と、食べることを止めようとはしないわけなのです。

しかし、そのような彼らでも矛盾した思考をしていることは否めないでしょう。
例えば、反捕鯨団体は日本が捕鯨することに激しく対抗しています。
クジラを殺す日本人を激しく憎悪しているわけです。

しかし、これも一部の日本人が指摘しているように、彼らとて牛や豚は平気で殺しているのです。
つまり、彼らは一方で、「動物の命は大切だ」と主張し、一方では「さあ動物を殺そう」と言っているわけです。

そして当の日本人はどうかというと、「動物を殺すことはしかたない。だって、殺さないと食べられないんだもん」「うまいものを食べることは止められない」と言うわけです。

しかし、彼らの中に小さいチワワを家族同然にかわいがっている人々もいれば、猫を家族同然にかわいがっている人々もいます。

そして彼らは「牛や豚と、犬猫は違う」と言うのです。そして彼らは「犬を食べる中国人は野蛮だ」などと言うわけです。
反捕鯨団体も日本人もどちらも矛盾しているということです。

どちらが正しいのか? どちらも正しくないのです。

彼らには正しい部分もあります。それはクジラを殺してはならない、という部分と、犬猫は大事にしようという部分です。

しかし、彼らの頭には「牛や豚、羊など」は「食べてもいいもの」「それらは食べ物」という考えが固定されているのです。
これはいわば洗脳といわねばならない状態なのです。
中国人や韓国人が日本を憎むのに似ています。

脇道に逸れますが
彼らは日本が極悪非道なことをしたのだから憎むのは当たり前ではないか、と言うのでしょうが・・・例えば、私が首相で過去の戦争問題で謝れと言われたら謝らないでしょう。

それは戦争という名のもとでは、全ての国がお互いに謝りあわねばならないと考えるからです。
しかし、もし今、日本人が海外で不祥事を起こしたら、私はその迷惑をかけた国に対し謝るでしょう。
自分がしたことではなくても、首相の立場として。
例えば、日本人の誰かが海外で銃乱射事件を起こしたとか、レイプ事件を起こしたとかした際には。

過去の問題ではなく、現時点の問題は、むしろ中国の方にあるでしょう。チベットを弾圧したり、海境を侵しているのだから。
韓国は第二次世界大戦が終わった後も、ベトナム戦争に参戦したり、近年の問題がありそうです。

このように、彼ら自身にも問題があるのに、日本だけをあげつらって、彼らが日本を恨んでいるのはいわば洗脳の成せる業なのでしょう。

中国で反日運動をしたのは若者、韓国で日本を恨んでいる多くは若者、中東で自爆テロをしている(させられている)のも多くは若者、というのが洗脳の証拠。

これと併せて考えるべきは、これも私が常々言っていることは―――
チベットの僧侶が飼っている虎のことです。

その虎たちは人間である僧侶を襲わないというのです。
その理由は虎が生まれてから動物の肉を与えられないから、というもの。虎は血の味を覚えないから、肉を〜人間を〜食べようとしない、というわけなのです。
菜食主義の虎というわけです。それもいわば洗脳の成せる業。

さて、これを人間に置き換えたらどうか。つまり、人間が血の味を覚えなければどうか。
おそらくあの虎のように、人間たちも肉を食べたいと思うようにはならないことでしょう。

つまり、いい意味の洗脳があれば、いい方向に行くということでもあるのです。教育次第で人間は善にも悪にも傾いてしまうということなのです。そうではありませんか?

戦争の原因

2番目の「動物食が人間を凶暴にしている」というのは

まず、動物にも感情があるということを認識してください。これは動物を飼っている人には分かることです。犬や猫には感情があるからです。

そして牛や豚も同様で、彼らは殺される時に恐怖を覚えるわけです。するとその「肉」はいわば“恐怖の塊”となるのです。

そしてその“恐怖の塊”を食べた人間には何の影響もないでしょうか? 毒を食べて何の作用もない? それも食べ続けていて。

つまり、肉を食べる人間は恐怖を毎日食べていることになり、その人は恐怖を取り込んでいることになるのです。恐怖ばかりではなく、ストレス、怒りなども含まれているかもしれません。

そして現代、大の肉食国アメリカは大の戦争国になっています。
個人レベルでも、現代人は争ってばかりいるではありませんか。つまり、肉食が現代の争いの一要因ではないとは言い切れないということなのです。

一笑に付すのは簡単です。単純に考えればあり得ないことなのだから。
しかし、やがて学者が因果関係を立証した頃には、このような思想が社会常識となり、当然の理論となるかもしれないのです。

動物の線引き

そしてこのような理屈はさておき、人はなぜ動物を区別するのか。犬猫と牛や豚は別物と。これは国によって違います。

日本では犬猫は動物愛護の対象で、虐待することは法律違反とされます。
しかし牛や豚は食べ物。同じ動物なのに惨殺しても法に触れないのです。

欧米では犬猫、イルカ、クジラは大切な生き物、しかし牛や豚は食べ物。

このラインは誰が決めるのか。
今の所、人間が勝手に決めています。人間が決めるべきものではないでしょうに。

では「神様が決めたラインがあるなら提示して見ろ」と誰かが言うかもしれません。
そこで私が提唱しているのです。

考えてみてください。
日本の法ではギャンブルは禁じられています。
賭博は罪で、有名人が逮捕されたりニュースネタになる程です。

しかし、ギャンブルなのにパチンコや競馬、競輪などは合法。悪人たちがぼろ儲けしていても、当局は関知せず。

何と、現代人は頭が悪いのでしょう。この矛盾が分からないとは。
いや分かっているのに変えられないとは。

人間どもの動物に対する線引きと似ているではありませんか。
つまり、人間たちは心の奥底で動物を殺すべきではないと分かっていても、儲ける人がそれを阻止していると考えることも出来るわけです。
「儲ける者」それは“人間の中の食に対する欲”です。

(アメリカから銃がなくならないのは武器商人が儲けるため。戦争も武器商人が儲けている。無くすべきと分かっていても、欲が阻止しているわけです。)

では生き物はどんなものでも全て殺してはいけないのか、というとそうでもないのです。
そこには神の決めたラインがあるからです。

生き物と一言で言っても様々。
よく菜食主義者を揶揄してこう言います。「ではお前たち、野菜だって生きているんだぞ」。

上の、欧米人や日本人のラインがおかしいのは、同じ哺乳類同士にラインを引いているからです。
つまりラインは、種で引かれるべきものなのです。

哺乳類、鳥類、爬虫類、昆虫、植物、鉱物などなど。

そしてこれは以前にも示しましたが、棒引きは哺乳類・鳥類―――爬虫類、昆虫、植物、鉱物などなどとなるわけです。

すなわち、哺乳類・鳥類は殺してはいけないということなのです。
それ以下は、無駄に殺すことは慎まねばなりませんが、必要とあれば許可されているというわけなのです。

では殺してはいけない動物を殺したらどうなるか。
神の法で罰せられるのか? 分かりません。

しかし、一つの答えとして、「そのようなことを人類はしているから、この世に戦争がなくならない」ということも出来るわけです。

つまり、この世の戦争、紛争、争いの一因は人類が無数に動物を殺していることの因果、というわけなのです。

アトランティス時代の教訓

これはオブラートに包んでお話しますが、かつて地球上にアトランティスという大陸がありました。
その歴史は長く数十万年に渡っていたので、当然、ここでは書き切れない程の様々な出来事があったわけです。

その中で、人類が動物を虐待して殺した歴史もありました。人類は非常に残酷な方法で動物たちを殺していたのです。

するとどうなったか。動物など物だから、殺そうが食べようが人間の自由なのか? そうではない証拠が事件として歴史上起こったのです。

それはその反動で多くの人間たちが自然によって殺される事態が後に起こったことで知られるのです。
当時の人類はその因果に気づかなかったでしょう。
一部の霊能者には分かったことでしたが、私のように歴史を俯瞰する人間には分かるのです。

そしてこのような事例は、人間が動物を虐待しても、殺してもならないということを物語っているわけなのです。

これを上に提示した、現代の戦争問題と照らし合わせると、符合して来るではありませんか。
(人が殺し合いをするようになった間接的要因は動物を殺していることにあるかもしれないということ。つまり、因果だ)



[例示集]

旧約聖書の人々 家畜を屠る 聖書の示唆 

私がこれほど、動物を殺すのは人類にいい影響を及ぼさないと言っているのに、実は、聖書の中の聖人たちも、動物を殺していたのです。

アブラハム

天幕の前に座っている時、ヤハウェが現れたので、家畜を屠ってふるまった。
この時、ヤハウェが肉を食べたのかは不明。

リベカ

アブラハムの息子、イサクの嫁
息子のヤコブが父のイサクにごちそうを振る舞えるように、家畜を屠る。

イサク

アブラハムの息子
息子が作った動物のスープ?を食す。彼は肉食を常としていたものと思われる。

ギデオン

「士師記」に出て来る人物
ヤハウェが現れた時、肉を備える


神について 神が人類の手本 聖書の例 根拠〜魚は良いが哺乳類はだめ

イエスの手本

イエスは人類の手本であり、カルマを負っている人はカルマの贖いをしなければならないということを身を持って教えた。
その他、人はどのように生きなければならないかを教えたのだ。

そして彼は紛れもなく神の具現者だったのだ。
使徒が「父=神を見せてください」と言うと、あなたは見て来たではないか」と言う。

つまり、彼自身が神の具現者だったと言っているわけだ。
(ただし、同時に彼は自分を「人の子」と呼んでいる。それは彼が肉体的には人の体に入っていたことを意味する)

そしてその神は様々な食事の席に呼ばれる。
食事のシーンで小説のようなメニューの描写はないが、福音書の最後で復活したイエスが岸にいて、使徒たちが漁船で陸に帰る時、イエスは使徒たちが獲って来た魚を炭火で焼いて食べるシーンがある。
これは神が人に「魚は食べてもよい」と許可しているという意味を持つのだ。

ケイシーのリーディング 最後の晩餐のメニュー

エドガー・ケイシーはそのシーンをリーディングしている。そのテーブルにあったのは
パン、ワイン、米、ニラ、煮魚であったという。
すなわち、テーブルに動物の肉はなかったということなのだ。

肉について ペテロに示された啓示

「使徒行伝」では使徒ペテロに幻が下りて来て、彼に幻影を見せる。それは籠にもられたごちそうだった。
神はペテロにこれを食べろと言う。しかし彼は「私は若い頃からこのような汚れたものを食べたことがありません」と拒否する。

これは彼が動物の肉を食べる習慣がなかったということを示すものと思われる。

鳥類はどうか

モーセ

エジプトから脱出したイスラエルの民は、荒野をさまよい、「肉を食わせろ」とモーセに詰め寄る。
モーセは「あなた方は明日、嫌と言う程、肉を食べることになるだろう」と言い、実際に民は肉を貪ることになる。

ここで聖書が肉として登場させたのは「うずら」だった。
すなわち、聖書は鳥を肉としているのである。
そしてこれは聖書が暗に、鳥類を食べるのはいけない、と示しているのである。

植物は

神の人エリシャ 木こり〜植物の命は

「列王記」には神の人と呼ばれるエリシャが登場する。
彼は偉大な預言者エリヤの弟子で、エリヤ同様、多くの奇蹟を行なう。

その中にこのようなエピソードがある。
森で木の伐採をしている作業者が誤って斧の頭を沼に落としてしまう。
当時、金属は貴重なものだったのだろう。エリシャはそれを見て、念の力で沼から鉄の斧を浮上させる。

ここでもし神の人エリシャが木を切ることに反対していたら、彼は木を切る人々に協力しなかったろう。
つまり、必要であれば木の伐採も許されるということなのだ。

昆虫や爬虫類は〜

「砂の妖精」の続編「魔除け物語」という童話の中の話〜これは聖書ではないが・・・

物語は時空を隔てて、特定の人物を追う。それは主人公である子供たちの邪魔をする邪悪な人物だ。やがて彼は過去から現代のイギリスにやって来ることになる。

そこで彼は自分の未来に出会うのだ。(小説では転生を明記してない)
ちなみに現代の彼は温厚で知的な好人物。

そしてその過去の彼と現代の彼は融合する。
そして残ったのは邪悪だった時の彼の名残りである毒虫〜ムカデ?だった。
男の子はそれを踏みつぶしてしまう。

つまり、毒虫は人間の邪悪さの具現したものだったのだ。
これは、真実をついているものだ。
無暗に昆虫を殺してはならないが、人間に害のあるものまで、神の創造物と崇めるのは滑稽なことであると覚える必要がある。

パウロ〜毒蛇

「使徒行伝」の中で、パウロが毒蛇にかまれるシーンがある。
側にいた人々は彼が苦しみだして死ぬのではないかと、見守る。
しかしパウロは毒蛇を腕から引き離すとたき火の中へ放り込んで、何事もなかったようにふるまう。彼に異常は怒らなかった。

ここで奇蹟に注目するのではなく、蛇=爬虫類について考察すると、人間は爬虫類の命を尊重しなくても良いことが伺えるということだ。



肉を全く食べてはいけないのか

エドガー・ケイシーは様々な病気治療のリーディングをして来ました。その中には食事療法についても多く割かれています。

ケイシーの肉食のアドバイス

『あらゆる種類の野菜をたくさん食べよ。肉は、魚、鶏肉、ラムが望ましい。他の肉はあまり頻繁に摂ってはならない』1710−4

――つまり、彼は肉を食べることを禁じてはいないのです。

健康という観点からは、豚などはいつも彼は敬遠しています。豚肉はあまり健康に良い影響を与えないのでしょう。
そして上では鶏肉、羊を勧めています。

これはおそらくある種の人には動物的エネルギーが肉体の健康には必要ということなのでしょう。
しかしその場合でも、彼はきちんと野菜を多く摂ることも勧めているわけです。

彼の伝記の中で、彼がどうしても救えなかった人が登場します。
それは栄養が非常に偏ったために亡くなったケースでした。つまり、極度の偏食が死に至らしめたケースがあったのです。

彼はそのエピソードの中で亡くなった人に対しこう言います。「これを教訓とすることだ」。つまり、来世ではその経験を生かせ、と言っていたのです。

肉ばかり食べるのも偏ったことですが、皆さんは肉が必要な方もおられましょうから、バランスを取って御自分の健康を考えて下さい。

私が菜食を強調しているのは、一つには現代がテレビのバラエティーなどで、タレントが大口を開けて肉を食べるシーンが頻繁に映し出され、国民を誘っているからでもあるのです。
そして「それはいけない」という人は皆無だからです。

しかし、健康の保ち方は個人で違います。ある人は動物を食べることが必要かもしれないのです。だから私は強制はしていないのです。
できるなら飽食は止め、必要最小限にしたらどうか、と言っているわけです。

また以下のようなリーディングもあります。

『この体を作る力には特定の種類の肉が必要。しばらくは完全に断ってはならない。それらの力や作用を断つのではなく、浄化せよ。神が言ったように“入って行くものよりも出て来るものが霊を汚す”からだ』295−10

ここでは肉を食べる必要のある人もいるが、肉そのものは人の魂に悪影響を与えるということを言っているようです。
つまり、私が提唱したように、「動物の死肉は、その動物が殺された時の、恐怖、怒り、悲しみなどが含まれているから、それを食べた人はその負の要素を取り込むことになる」というわけです。

そこでケイシーが言うには「それを浄化せよ」ということなのです。
どのようにして?とお思いでしょうが、彼が言うのは霊的な力を持って、ということなのでしょう。

もっと具体的に言うなら、常に正しい生き方をして、魂が肉体に良い影響を与えるまでになる、ということなのです。

ですから、自堕落な生き方をしている人間が何も考えず、肉を貪ることはあまり賢いとは言えないわけなのです。そして人類がそのようなことをして来た結果、今世界は紛争、戦争が絶えない世の中になっているということです。

「神が、入って行くものよりも出て来るものが霊を汚すと言った」というのは、キリストがこう言ったことを指します。

「口から入って食べたものは、それは人を汚さない。ただ便所に行くだけだ。しかし人の口から出たものはその人を汚すのだ」と。

つまり、どんなものを食べてもそれは物質に過ぎず、霊的な作用はしない。ウンコになるだけ。
しかし、人がもし悪口雑言を言ったら? 霊的な念を飛ばしたら? 邪悪な行い振る舞いをしたら? 

〜そのようなことも比喩的に「口から出る」とイエスは言っているわけです。

そしてそのようなことをしたら、悪人は自身の霊を汚すことになるのです。そして霊を汚したら、償いの罰として病や人生の困難を背負うことになってしまうというわけなのです。

究極的にはイエスが言ったように、人間は考え方、念、行ないに注意しなければなりません。
しかし、現代の人類はそれほど霊的ではないわけですし、ケイシーが言うように食べたものを「浄化する」のも難しいでしょう。

キリストが言うように、食べたものによってはただ便所に行くというわけに参りますまい。
だから、食べ物には注意した方がいいと私は言っているわけです。

まとめ

・自分の健康を鑑み、何を食べるか検討する必要がある。

・もし、肉食が必要なら、乱食することは控え、計画的に健康のためと割り切る 必要最低限と定める。

・他人に菜食を強要してはならない。

歩みは一歩一歩 人類の進化も急激には起こらないのです。全く進歩しないのは問題だが、少しずつでも進歩して欲しいと私は考えるのです。これを読んだ人に進歩があるようにと。






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